主 題:罪から救われる
聖 書:ヨハネの手紙第一 1:1-10
聖 句:ヘブライ人への手紙 9:22
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
説 教:三宅忠雄牧師
1)土台の無い信仰生活
キリスト教信仰の要は、自分の罪が主の十字架によって赦され、救われたと信じることです。この基本的な信仰の確信が無ければ、土台のない家を建てるのに等しいものです。信仰による神様への感謝や神様への愛を感じる生活も、ひとえに神様が私の罪を赦して受け入れてくださったという恵みの確信があったればこそです。
クリスチャンになって教会生活を始め、定期献金を捧げ奉仕活動にも熱心に取り組んで、一見とても良いスタートを切ったと思える人を見受けます。
私の思考はあなたの考えではありません
しかし数年と経たないうちに、牧師や他の教会員の欠点をあげつらい、理由をつけては教会に来なくなる人が多いことに、一牧師として無念の思いを禁じえません。また、そういう方に会うと、みな一様に「疲れた」という顔をされているのも忘れられません。
日本人の教会生活は平均4年くらいだと聞いたことがあります。主と共に歩む信仰生活を一生涯全うしようと決心して始めた信仰なのに、なぜ途中で挫折してしまう人が多いのでしょうか。その答えを出すには、日本人の宗教観や日本における宣教の在り方なども大いに議論されるべきでしょうが、まずは信仰者の根本的な問題として、信仰の基本中の基本である「主が罪を贖ってくだ� �ったという確信」が無いからだと言えるのではないでしょうか。
2)罪と十字架の赦し
「罪」とはいったい何でしょうか。「罪」とは創造主であり絶対者である神への不遜の罪です。神の無い一生には「罪」という強い引力が働きます。神様をないがしろにした人生には「罪」はあっても本当の満足は無いのです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。 (ローマ人への手紙 7:19)
罪から罪へと深みにはまり、やがて永遠の滅びへと突き進む哀れな姿、これが本来の人間なのです。人生の途中で気付いても、罪から救われるすべも知らずに終わってしまうのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙 7:24)
使徒パウロは罪びとの叫びをこう表現しています。それは、たとえクリスチャンでも「罪」が主の十字架によって赦され、清められたという確信が与えられるまで、祈り、求め続けなければならないと訴えているようです。
3)キリストの血潮によって
第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。(ヘブライ人への手紙 9:7)
何千年も続いた旧約の時代には、人々は屠(ほふ)った動物のまだ生暖かい血を神様の御前注ぎ、「罪」の赦しを請うたと記されています。
新約の時代を迎え、真の神様の御子イエス・キリストは、動物の血ではなく、ご自分の命を注いだ血で我々罪びとの罪を赦し、清めてくださいました。
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