聖書も仏典も究極の心理学です、或は脳の機能の説明書と言う言い方でも良いと思います。人間の究極の心の在り方を『幼子』と聖書では書いています。
仏典でも人間の目指す究極のものは『大人の嬰児』です。是は脳の機能から説明すると分かり易いと思います。人間の苦しみとは『心の矛盾や対立や分裂』と云う事が伺われるからです。
脳の機能が完成に近くなる頃、すなわち思春期頃から、人間は悩みが大きくなる事実です。或は精神疾患や神経症や自律神経失調症が始まる事を意味します。
つまり心の矛盾を感じ始める年齢が、脳の機能の完成と事を同じくすると言う意味になります。失楽園と言う意味は、『脳の機能の分化が完成する事』によって、心が二つになってお互いに争いが始まると言う� ��味になります。
自我意識は言葉を学ぶ事によって、ますます『分別心が強くなってきます』処が人間の働きは生まれたままの姿をますます、分かり難くしています。
つまり人間の感情を沸かせる『働き』は、『無意識の中に封印されてしまう事』を意味します。
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かくして、人間の悩みが始まっています。二つの意識の争い、或は主導権争いです。この場合自我意識が勝ってしまう時、心の問題として現れる現象が、『心を病む事』になっています。
身体の問題として現れる場合を『自律神経失調症』と呼んでいます。
行動の問題として現れる現象を『神経症』と呼んでいると思います。
こうして人間は知恵のりんごを食べた事を実感として感じます。つまり心の矛盾を『心』は感じている事を意味します。
人間の苦しみを『心は』身体と心に映し出すと言う意味になります。この意味するところは、検査をした場合何処にも異常が無い事です。つまり『頭の中だけで』症状(妄想)を創っている事を意味します。
この妄想(症状)の解消を� �教が過去においては受け持っていた事を意味します。つまり『心の矛盾の解消』が宗教の目的と云う事になります。
その『心の矛盾が解消された』姿をキリスト教では、神に会って和解すると表現しています、仏教では、他力宗では、阿弥陀様に救われたと表現しています。自力本願では『苦しみの元を知る事によって、全ての苦しみから解放された、と言う意味で『生死の問題を解決する』と表現しています。
聖書reltaeは、教育にどのように
脳の機能から説明するなら、感情を湧かせられていた側の『自我意識』が感情を沸かせる側としてのもう一つの意識との出会いで、もう二度と『心は争う事が無くなる事』を意味します。
左脳に存在する意識『自我意識』と右脳に存在する意識『仏性或は神』との間にホットラインが通じた事を意味します。是が『悟り』と云う事になります。
もう一つの表現方法を取るなら、『意識する自分』と『無意識の時の自分』が『意識の根底での出会いで』交替制を取っていることを認め合って、二度と出番を取り違える事がなくなるという意味になります。
人間の障害とは、二つの意識の、出番を取り違えている事を意味します。メンタル面が弱いと 言う意味は『無意識に任せられなくなって、出来もしない自我意識がでしゃばってしまう事』を意味します。
どちらにしても、自我意識が『自分の無意識』を信頼出来ない事がその発端です。神経質という意味は、『自分の無意識』に疑いを差し挟む事を意味します。
心の矛盾の解消とは、自分の無意識の信頼を取り戻すことで完了します。それが悟りです。全ての障害が取り払われる事を意味します。是が完治です。
寺院の偶像の役割は何ですか?
『人はパンのみにて生きるにあらず 』と言う回答としては筋違いと言う感が否めないですので、この線に沿って回答しますが、今書いた事を踏まえて(伏線として)頂ければ、これから書く事が分かり易いと思います。
パンと言う表現は『目に見える世界』と言う意味です。それ以外のものとは『目には見えないけれども真実という意味です』症状に苦しんでいる人達は『目に見えない何かに怯えていて』身体心も、見えない何かに『反応している事を意味します』
この意味は『眼の前の世界を二つにして』見ている事を意味します。一つは『現実としての世界』です。もう一つは『妄想としての世界』です。この二つにして見ている世界が『人間苦』=罪の意識の世界です。仏教では『業』と表現しています。
この開放を宗教が受け持っています。その意味す るところは『第三の目が開ける事』を意味します。目に見えない何かに怯えていた世界が、その怯えさせていたものの正体を『意識の根底から了解する』世界です。
今までは、見える世界しか認識出来なかったものが、見えないものまでも見える世界です。言い替えるなら『真実の中の嘘も、嘘の中の真実も』見分ける事を言います。
真実を見通す目が開ける事によって、眼の前の世界が又『一つの真実の世界となって』展開します。世の中の見方の変更です。二つの意識が友に一つになって働き出す世界です。この見方になる事によって『妄想=症状』が消えてゆきます。症状は『分別が作り出していた幻の世界』だった事が分かります。
神や仏とは『自分自身の感情を湧き上がらせる働きをしていた者』と知ります。その働きを心から追い出そうとしている事が『心の矛盾』の正体と分かります。
投稿日時 - 2011-05-29 09:14:43
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