「誰が聖所に立てるのか」
2004年6月6日礼拝説教
詩編24編
地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。(1節)
詩編24編はまず、このように宣言します。なぜ、主のものだと言えるのでしょうか。その訳は続く2節が物語っています。
主は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。(2節)
主なる神さまが造られた地であり、世界であるからこそ、それは主のものだと言えるのです。ここで言われている「大海」とか「潮」というのは、いわゆる"海"のことを指しているのではありません。そうではなくて、主なる神が世界を造られる以前の混沌、カオスの状態を指しているのです。
旧約聖書・創世記の最初に、神さまによる天地創造の物語が記されていますが、その冒頭には、次のように書かれています。
初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1章1〜2節)
ここに「水」と出て来ます。混沌とした、闇に覆われた水。それが現実にどのような状態なのか、想像を越えていますけれども、そのような「水」のことを、詩編24編は「大海」と呼び、「潮」と言っているのです。
悪魔&悪魔の間にdeferencesは何ですか
混沌とした、闇のような状態から、主なる神さまが世界を想像し、地を据えられた。だから、地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは主のものだ。この御言葉を聞いて、"ふーん、そうなの"という感想で終わるか、はたまた"そのことは、もう知っているよ"という気持を抱くか、それともハッとして心の襟を正すか。それによって私たちの信仰は大きく変わって来ます。主は「地の基」を置いたとありましたが、これは私たち信仰者が、"人生の基"を置くべき御言葉だと言っても決して言い過ぎではないでしょう。
この1〜2節の御言葉を聞いて、ふーん、そうなのと無関心に、自分には関係ないよと傍観者のように聞き流したとしても不思議ではないのです。主が大海の上に世界を築いたなんて、まるで御伽噺(おとぎばなし)のような話ですし、世界とそこに住むものは主のものだと言われても、本当かなあ、信じられないなあ、と実感が湧かなくても無理もありません。私自身、実感があるかと問われたら、怪しいものです。
あるいは、ここにいる私たちの多くは、創世記の天地創造物語を知っているでしょうから、ああ、そのことなら、もう知ってるよと言った感想で、それほど感動しないとしてもおかしくはありません。けれども、本当の意味でこの御言葉を知っていると言えるでしょうか。この御言葉を知っているということは、私たちの意識が革命を受け、私たちの生き方が根本的に変えられる、ということなのです。
ところで、5月23日は私たちの教会の創立記念日で、上尾合同教会の秋山徹牧師をお迎えしました。その日の午後に行われた会堂建築のための研修会で、秋山先生は、"教会は主のもの、キリストのもの"だということを繰り返し強調されました。自分たちのものだ、と思うから、このぐらいの規模でいいや、また自分たちにできるのはこの程度だ、と自分たちのスケールで、小さく考えてしまいがちになる。そうではなくて、教会は主イエス・キリストのものなのだから、その主のスケールで、主の必要に応じて考えるべきだし、主のものなのだから主ご自身が建ててくださる、必要なものは満たしてくださると信じて建てたら良い、と教えられました。私自身、現実の前に、ついつい自分のスケールで考えてしまいがちになるので、本当 にそうだと思いました。
天国を訪れた人々
そのように一つのことを挙げてみても、私たちの意識、私たちの生き方は、「世界とそこに住むものは主のもの」との御言葉に立つならば変えられて来るのです。主なる神は、世界とそこに住むものを造られて、それを"極めて良いもの"と認定されました。そして、世界とそこに住むものには、お造りになった主の愛が豊かに注がれているのです。けれども、世界とそこに住むものを主のものではなく、自分たちのものと考える私たちの身勝手(=罪)が、主が心血を注がれた、極めて良いはずの世界をだめにしていることがしばしばあるのではないでしょうか。
この御言葉は、抽象的なことを言っているのではありません。エコロジーの問題だって、政治の問題だって、この御言葉を元に考えることができます。自分の周りにいる色んな人も、主が造られた、主のものとして生きている人だと意識すれば、私たちの人間関係は変わって来ます。何よりも"自分自身"が主のものだと受け止めて生きるなら、自分自身が変えられて来ます。誰からの評価も得られないとしても、主が「極めて良かった」(創世記1章31節)と"私"に太鼓判を押して下さっているのだし、人との関わりに寂しさを感じる時も、主の愛が豊かに注がれているのだから慰められ、平安と自信を与えられて生きることができるようになります。また、自分は主のものとして、主に喜ばれる生き方は何かと考えるようになります。「主の� ��の」と意識し続けるなら、急激でなくとも、少しずつ変えられていくでしょう。
さて、「世界とそこに住むものは、主のもの」と語りかけるこの詩編は、3節からその内容が一変します。その変わり振りに、あれっ?と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。3節で、
どのような人が、主の山に登り
聖所に立つことができるのか(3節)
と聖所、すなわちエルサレム神殿に立つことができる人の資格が問われ、それに答える形で以下の節が続きます。
ファーガスフォールズのシングルミーティング
この部分は、神さまを我が主と崇め信じる者が神殿に詣でた時に、その神殿入場の資格を問う典礼の言葉であったと言われています。神殿に詣でた人が、入口のところで、「どのような人が‥」と呼びかける。すると、神殿の祭司が、「それは潔白な手と清い心をもつ人。‥‥」と答え、「主はそのような人を祝福し‥」(5節)と祝福の宣言をもって神殿入場を許可する。そういうことが当時、行われていたようです。
しかも、この詩編のおもしろいところは、神殿に入場するのは、神様を信じている人だけではなく、神さまご自身も神殿に入場するのです。そして、神殿に入場される神さまがほめたたえられています。
その辺りの内容構成から、この詩編は何らかのセレモニーの際の歌であり、おそらく神殿奉献の祭りの際に歌われたものだと考えられています。
イスラエル王国はソロモン王が建てた神殿を中心に栄えましたが、やがて人々は異教の礼拝に走り、神を怒らせました。そのために神さまは神殿を離れ去り、神様の御加護を失ったイスラエルはやがてバビロニア帝国に滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊されてしまいます。そして50年後、バビロニアがペルシアによって滅ぼされ、エルサレムへの帰還を許されたイスラエルの人々は、そこに神殿を再建します。その再建された神殿を神さまに献げる奉献祭での歌が、この24編だと言うのです。
世界の創造者であり、支配者である主が、自分たちのもとに帰って来られた。ほめたたえよう。そして、過去の同じ過ちを犯さないように、主を神殿で礼拝する者としてふさわしく歩もう。そういう信仰の志を、イスラエルの人々は、神殿奉献の記念祭の度に歌ったのです。その意味では、この詩編は"悔い改め"の歌であると言うことが出来ます。
ところで、神殿入場の時の掛け合いの部分を当時の人はどう思っていたのでしょう。これとほぼ同じものが詩編15編にもありますので、この掛け合いは、神殿入場の際には広く、一般的に行われていたのでしょう。これ、教会でやったらどうでしょう。皆さんが教会の玄関で、「どのような人が‥聖所(教会)に立つことができるのか」と問いかける。すると、牧師が、「それは‥」と答えて祝福し、迎え入れる。この掛け合いの内容をまじめに考えると、少々きついものがありますね。礼拝に来る人が減るかも知れません。
自分は潔白だと言えるか。心が清いと言えるか。むなしいものに魂を奪われていないと言えるか。自分自身の内側を誠実に見つめ、掘り下げて行けば行くほど、この言葉は私たちにきついものとして響いて来るでしょう。
聖書の時代のイスラエルの人々は、聖所に立つにふさわしい自分の清さを、自分の力で生み出そうとしました。神の掟に従って清い生活をする努力をしました。それは尊いことでありますし、不必要だとは言いません。
けれども、自分の努力で自分の清さを生み出そうとする生き方は、ともすれば、"自分が"という意識のために、自分を"自分のもの"と考え、主のものであることを、自分は主の愛の手のうちに造られ、生きている者であることを忘れがちにさせます。それだけでなく、あの人は清い、この人は清くないと清さを生み出す努力で人を判断し、差別するようになります。また、自分のことも清さの努力で評価するようになります。つまり、人間の側の行為が、誰が聖所に立てるのかの基準になるのです。
しかし、私は同じ詩編の51編の一節を思い起こします。ダビデ王が、夫のある女性と姦通の罪を犯した後で、自分の生きざまにハッと気づいた王は、こう歌います。
神よ、わたしのうちに清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。(12節)
自分のうちには清い心がないことに愕然とした王は、赦しを願いつつ、神さま、清い心を私に造ってくださいと祈っているのです。
また、ルカによる福音書18章で、神殿に詣でた徴税人は、その一番後ろの方で、胸を打ちながら、こう祈りました。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(ルカ18章13節)
主イエスは、この徴税人こそ、神に義とされて、つまり清められて帰って行った人だと語りました。
自分の内なる汚れに気づき、憐れんでくださいと祈り、清い心を造ってくださいと願い、こんな私ですが、神さま、よろしくお願いしますと、神様の愛の手に委ねる人こそ、自分は「主のもの」と知っている人であり、聖所に立つことのできる人なのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿